京生まれ料理屋育ち
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包丁とまな板の刻む小気味いいリズムと、
カチャカチャと出される器の音、カツカツ鳴る高下駄と石畳、
何より飛び交う掛け声が
活気と慌ただしさを調理場中にあふれさす。
「できたかー!!」
父の声に勿論です!と付け足したい勢いで
「はいっ!!」
っと間髪入れずに応える若い衆。
9月10日
一年でも、いち、にを争う忙しい日だ。
京都平安神宮側にある岡崎公園前の都メッセでは毎年清水焼の見本市が開かれる。
見本市では来客用に数店舗の料亭へ
200個のお弁当の配達と配膳が依頼される。
創業350年、江戸時代より続く老舗料亭『はりせ』もそのひとつで、僕の生家だ。
通常営業を行いながらの大量弁当の用意は大変で、ほとんど徹夜に近い一日になる。
調理場のみんなには忙しさとプレッシャーで地獄の1日と覚悟を決めさせられる日だ。
みんなには本当に申し訳ないと思うのだが、小学三年だった僕はこの日が、そんな一日が
堪らなく、だいだいだーーいすきだった。
夜中まで聞こえてくる高下駄の音
鍋とお玉の繰り出すキンコンカン、
時折聞こえてくるみんなの掛け声、
夜11時になると、とりあえずつまめるものをとおにぎりを作り出す母。
そのすべてが僕にはお祭りだった。
夜なか中、起きてその雰囲気を味わってたいと思いながらも寝てしまい、ふと明け方目が覚めたときに、変わらず動き続けてる料理屋の喧騒に「みんないてくれてるーーー!!」
っと叫びたいぐらいに嬉しさが溢れ出す。
みんなが居てくれてること、
忙しいこと、バタバタ慌ただしいこと。
ずっーっと調理場が動いてること。
そのすべてが大好きなお祭りだ。
みんなには邪魔でしかないとわかりつつも、少しでもその輪に加わりたいとおにぎりを持っていったり、ちらりと調理場を覗きにいったり。ピリピリ忙しく疲れてるみんなが
大将の息子とわかってるからこそ
無理やりくれる笑顔が本当に嬉しかったり誇りだったり。
調理場も、若い衆のみんなも、きりりと取り仕切る父も、みんなみんな、全部全部
だーい好きだ。この頃は大きくなったら今度は僕がこの輪の中心になるんだ、僕がこの調理場の中でお祭りをするんだと、いつも思っていた。後継ぎという言葉も知らず、兄が居ることを気にもとめず、なんの疑いもなく。
ただ毎年来るお祭りを誰よりも、正しくは僕ひとりがわくわくといつも楽しみにしていた。
調理場がどんな祭りであったとしても、この日の朝も学校はあり、調理場の忙しさを誇りに思いつつ、まだまだ、続く祭りに想いを馳せながら、居間をでてお客様の通る細い露地に出て玄関に向かう。
玄関脇には調理場の出入り口の扉があり、
毎朝学校に行くときは必ずその扉を
力一杯開けて調理場全体にみんなに響き渡るように
「いってきまーす!」と声をかける、
すぐさま
「いってらっしゃい!!」と
みんながまた太く大きく逞しい声を返してくれる。
この瞬間も堪らなく好きで、みんなに背中をとん、っと押して貰ってる気になる。
小さな頃からずっと幾度となく父に教えられ続けた言葉がある。
「お前が学校にいけること、ごはん食べられること、洋服着られること、それは全部みんながお仕事がんばってくれてるから、
みんなが居てくれてるから出来てることなんや、忘れるなよ」
だから、朝の挨拶には気持ちのどこかに
ありがとうの想いも乗っていた。
毎朝みんなに元気をもらい、安心し、ありがとうを込めて大きな声をだす。
毎朝ここからいちにちが始まる。
この日も祭りの最中に朝八時前に声をかけ、後ろ髪引かれながら出かけていった。
そこからが調理場は慌ただしさのピーク、
迫る時間に高下駄でも駆け足になっていくみんな、最後の盛り付けは運動会のリレーみたいに出来上がった料理が素早く渡され詰められていく。
「そこ、焼物綺麗に入れろ!」などと
自然と掛け合う声も荒くなり、
10時前にはいよいよ出発の準備に。
「よし!気をつけて車に積んでいけ!!
揺らすなよ!」と父が最後の号令。
とそのタイミングに電話が鳴った。
「おおきにはりせでございます!」
祭りの最中抑えきれない張った声で父が出ると
「東山警察署です。森本さんですか?」
「はい、そうですが‥」
「森本隆三さんですね、息子さんの森本まさひこさんが事故に遭われ、
東山五条で市バスにはねられました。」
「‥‥バス!?」
それまで大声張って活気溢れてた父の四肢から見事に力が抜け落ち、ガクッとその場に崩れおちた。