京生まれ料理屋育ち
2
気がついた時には自分がどこにいるのか
何が起こっているのかさっぱりわからなく、
ただ全身に激しい痛みがあり、
特に頭と太ももの外辺りがとてつもなく痛く
ただ泣きながら
「かあさーん痛いー」と叫んでいた。
四人兄弟の末っ子で、順序で言えば
姉姉兄に僕、姉二人と兄の間はそれぞれ二年ずつ年違いで、三番目の兄から僕の間だけ五年離れている。年の差あっての末っ子の男の子、それはそれはもう母から甘やかされ、僕も甘えに甘えていた。学校から帰ると、いの一番に
「かあさんどこー!?」の決め台詞を放ちながら、居間から帳場(今でいう事務所)を周り、見つからなければお座敷まで駆け回る。
ようやく見つけたら数人の中居さんとミーティング中であろうと、着物屋さんとか陶器屋さんなんかの業者さんと商談中であろうとぴったり横にへばりつく、
流石にお客様と一緒ならそこは渋々我慢して
座敷の影で待ち伏せたり、あんまり長引いた時には、へそ曲げて居間に戻って仏頂面したり。年に一度有る慰安旅行、従業員みんなでの一泊バスツアーの時に至っては、バスの帰りが夜の七時とわかってても、学校帰りの夕方四時から姉の制止をふりきって、五条坂の陸橋に登り、出てくるであろう東山トンネル方向の道路を見つめ、バスの帰りをいや、かあさんの帰りを三時間待ち続けてた。
そんな僕が、今どこかもわからず気づき、全身の痛みに襲われたなら一言目はただひとつ
かあさん、だった。
只、意識は朦朧としていて、
うっすら開けることができた視線の先には
側で泣いているかあさんが見えた。
僕のどこどこが痛いっ、の声を聞いてどこが?と必死で探してくれて看護婦さんに訴えかけてくれている。まだ見つけられてなかった傷は沢山あり、治療されてない所が激しく痛かった。都度都度、母が看護婦さんに
「ここをおねがいします!」っと涙ぐみながら伝えてくれていた。
ここから四日間程はなにもわからず朦朧とし続け、自分の身に何が起こったのかはっきりと理解できたのは退院してしばらくしてから、警察の人たちからの事情聴取を受けて事の全容を教えられた時だった。
それでも事故当時の記憶は全く無く、警察のひとたちが教えてくれる事故の話を丸のみするしかなかった。その教えてもらった話しと僕の記憶を重ねて、今なら何が起こったかは理解できている。
「いってきまーす!」と
出発した僕は外に出たとたんに雨に気づいて傘を取りに入る、もう一度出発して五分歩いた後に、忙しい祭りの最中でも母が作ってくれたお弁当を忘れたことに気がついて大慌てで取りに帰る。もう一度出発して急ぎ足であるいて十分後、なんなら学校までもう後少しまで来ていたのにそこでワークブックを忘れたことに気がつく。
取りに帰ったらもう遅刻する時間帯、
でも昨日も同じワークブックを忘れてて今日こそは持ってこないと思ってたワークブック。迷いはなかった、くるりと向きを変えて学校に向かう沢山のみんなとすれ違いながら、血相変えて走っていった。
今にして思えば何度も逃れるチャンスはあったのかもしれない。もしくは三度も帰る、これが虫の知らせだったのかもしれない。
その三度目大慌てで帰ってるところ
東山五条の大きな交差点を傘を差しながら、信号が変わるや否や横断歩道に飛び出した。
傘は慌てふためく僕の視界を綺麗に遮り、
大きな交差点だからこそ信号ギリギリで勢い増して走ってきた市バスに全く気づかず、バスもまさか飛び出してくるとは思わず、事故になってしまった。
僕は右側全身でバスの正面と衝突、四メートル飛ばされ左側頭部をアスファルトに打ち付けた。外傷は市バスのライトに直接当たった右側頭部五針分。その他は大きな擦り傷が沢山、右太ももは少し肉がえぐれていた。
只、問題はアスファルトに打ち付けた左側頭部でこちらは外傷の出血なく頭部内出血という形でここから三日に渡って出血し続け、確実に僕の状態を分刻みで悪化させていっていた。
運び込まれたのは事故現場すぐ側にあった
救急専門の病院だった。勿論すぐに全身検査を受けその結果、小さな頭部内出血は、このままでも大丈夫ですが、
一応手術しましょうか程度の診断結果だった。事故直後には。
当の僕は病院で気づいてからずっと朦朧としたままだったが夜になって逆に意識がはっきりするほどの吐き気と頭痛に襲われ出した。
どんなにか忙しく大変だったろうかそれでも
母はこの夜病室にとまってくれていた。
急に横で吐きながら苦しむ僕に驚き看護婦さんを呼んでくれ点滴とお薬が用意された。
それでも一晩中僕の苦しみは続き、次の日には再び意識は朦朧としてきた。
そんな中父が顔出してくれたり、兄弟がきてくれたことはうっすら覚えているがより一層強まる吐き気にそれどころではなかった。
一日吐き続け、もう胃には何もなくそれでも吐き気は収まらずただ胃液らしいものが出てくるだけでそれがさらに苦しさを増していった。
点滴もうち続けられ、同じ場所では痛みが出てきて
次々と打つ場所がかえられ腕から手首、手の甲、足の甲そこもいたくなって、足首にまで移動していった。足首の点滴の痛みが強烈だったことははっきりと覚えている。もうあちこちの痛みと吐き気に
どうしてたすけてくれないのこんなに苦しいのにお願い
「助けてかあさん」と弱々しく一日中訴えかける僕にかあさんが泣いていたこともおぼえている。
医者の様子は変わらずで、まあ明日手術しましょうかとの声かけに、僕の様子を見た父がこれはきっと只事ではないと、藁をもつかむ思いで掛かり付けの、長年付き合いのある町医者の朝田先生に相談にいってくれた。
「未分類」カテゴリーアーカイブ
京生まれ料理屋育ち
京生まれ料理屋育ち
1
包丁とまな板の刻む小気味いいリズムと、
カチャカチャと出される器の音、カツカツ鳴る高下駄と石畳、
何より飛び交う掛け声が
活気と慌ただしさを調理場中にあふれさす。
「できたかー!!」
父の声に勿論です!と付け足したい勢いで
「はいっ!!」
っと間髪入れずに応える若い衆。
9月10日
一年でも、いち、にを争う忙しい日だ。
京都平安神宮側にある岡崎公園前の都メッセでは毎年清水焼の見本市が開かれる。
見本市では来客用に数店舗の料亭へ
200個のお弁当の配達と配膳が依頼される。
創業350年、江戸時代より続く老舗料亭『はりせ』もそのひとつで、僕の生家だ。
通常営業を行いながらの大量弁当の用意は大変で、ほとんど徹夜に近い一日になる。
調理場のみんなには忙しさとプレッシャーで地獄の1日と覚悟を決めさせられる日だ。
みんなには本当に申し訳ないと思うのだが、小学三年だった僕はこの日が、そんな一日が
堪らなく、だいだいだーーいすきだった。
夜中まで聞こえてくる高下駄の音
鍋とお玉の繰り出すキンコンカン、
時折聞こえてくるみんなの掛け声、
夜11時になると、とりあえずつまめるものをとおにぎりを作り出す母。
そのすべてが僕にはお祭りだった。
夜なか中、起きてその雰囲気を味わってたいと思いながらも寝てしまい、ふと明け方目が覚めたときに、変わらず動き続けてる料理屋の喧騒に「みんないてくれてるーーー!!」
っと叫びたいぐらいに嬉しさが溢れ出す。
みんなが居てくれてること、
忙しいこと、バタバタ慌ただしいこと。
ずっーっと調理場が動いてること。
そのすべてが大好きなお祭りだ。
みんなには邪魔でしかないとわかりつつも、少しでもその輪に加わりたいとおにぎりを持っていったり、ちらりと調理場を覗きにいったり。ピリピリ忙しく疲れてるみんなが
大将の息子とわかってるからこそ
無理やりくれる笑顔が本当に嬉しかったり誇りだったり。
調理場も、若い衆のみんなも、きりりと取り仕切る父も、みんなみんな、全部全部
だーい好きだ。この頃は大きくなったら今度は僕がこの輪の中心になるんだ、僕がこの調理場の中でお祭りをするんだと、いつも思っていた。後継ぎという言葉も知らず、兄が居ることを気にもとめず、なんの疑いもなく。
ただ毎年来るお祭りを誰よりも、正しくは僕ひとりがわくわくといつも楽しみにしていた。
調理場がどんな祭りであったとしても、この日の朝も学校はあり、調理場の忙しさを誇りに思いつつ、まだまだ、続く祭りに想いを馳せながら、居間をでてお客様の通る細い露地に出て玄関に向かう。
玄関脇には調理場の出入り口の扉があり、
毎朝学校に行くときは必ずその扉を
力一杯開けて調理場全体にみんなに響き渡るように
「いってきまーす!」と声をかける、
すぐさま
「いってらっしゃい!!」と
みんながまた太く大きく逞しい声を返してくれる。
この瞬間も堪らなく好きで、みんなに背中をとん、っと押して貰ってる気になる。
小さな頃からずっと幾度となく父に教えられ続けた言葉がある。
「お前が学校にいけること、ごはん食べられること、洋服着られること、それは全部みんながお仕事がんばってくれてるから、
みんなが居てくれてるから出来てることなんや、忘れるなよ」
だから、朝の挨拶には気持ちのどこかに
ありがとうの想いも乗っていた。
毎朝みんなに元気をもらい、安心し、ありがとうを込めて大きな声をだす。
毎朝ここからいちにちが始まる。
この日も祭りの最中に朝八時前に声をかけ、後ろ髪引かれながら出かけていった。
そこからが調理場は慌ただしさのピーク、
迫る時間に高下駄でも駆け足になっていくみんな、最後の盛り付けは運動会のリレーみたいに出来上がった料理が素早く渡され詰められていく。
「そこ、焼物綺麗に入れろ!」などと
自然と掛け合う声も荒くなり、
10時前にはいよいよ出発の準備に。
「よし!気をつけて車に積んでいけ!!
揺らすなよ!」と父が最後の号令。
とそのタイミングに電話が鳴った。
「おおきにはりせでございます!」
祭りの最中抑えきれない張った声で父が出ると
「東山警察署です。森本さんですか?」
「はい、そうですが‥」
「森本隆三さんですね、息子さんの森本まさひこさんが事故に遭われ、
東山五条で市バスにはねられました。」
「‥‥バス!?」
それまで大声張って活気溢れてた父の四肢から見事に力が抜け落ち、ガクッとその場に崩れおちた。
この春で19年目を迎えさせて頂きました!
オープンさせて頂き19年、皆様に感謝の気持ちいっぱいで毎日を過ごしております。
20年目に向け新たにこちらで物語を綴らせて頂こうと思います。私小説的な物語ですが
幼い頃より料理屋でうまれ育った毎日を面白おかしく、その裏側をご紹介出来ればと思っております。
「京生まれ料理屋育ち」
是非お楽しみください!!
営業?休業?色々考えさせられますが!営業します!!

営業、休業色々考えさせられますが、
ご予約のお声かけにはお応えしたくて!!
営業します!!
酒類はおだしできないのですが、
少しでもお運び頂いた時間を楽しんで頂けるように、
ノンアルコールドリンクリスト作りました!!
色々試作もして!!
ドリンクもお料理と一緒ですね!!
どれぐらいの割合で合わせるか、
温度での違いにも気をつけて!!
今回初めて作ったノンアルコールの
レッドアイ!!
これもう最高~に美味しく出来ました!!
嬉しくて楽しくて!!
今日も笑顔いっぱいで張り切ります!!
二色漬けちらし丼始めました!


料理人として色々考えさせられます。
今の僕に出来ること。していいこと。
美味しい笑顔を作りたいと思ってたけど、今まで沢山笑顔にしてもらってたのは僕の方だと気づかせてくれたこの一年。
こんなときこそ笑顔のお返しをと
冬季限定、時短営業時限定メニューを作りました!
二色漬けちらし丼!!
店内お召し上がりは白味噌の椀物付きで、
勿論テイクアウトもご用意!
仕事帰りでも、一人でも、気分転換にでも!さっと食べて帰れるものをとかんがえました!!
穏やかな日が早く訪れますよう、
美味しい笑顔のお手伝いにできますよう、
願いながら…
味見したら美味しすぎて、まずは
僕が笑顔溢れました(^-^)
大文字弁当

今月はお弁当の蛸ご飯に大の字人参を添えて大文字焼きに見立てました!
祇園祭、大文字と今年は寂しい形になりました。
お料理に器にお弁当にと毎年夏らしさの演出にも助けてもらう、お祭りに大文字。
今年はお休みになったからこそ、そのありがたさを改めて感じつつ災厄の除去を祈りつつ。
小さなお祭りと小さな大文字を送り出してます。
小さな祇園祭始めました

今年は残念ながら祇園祭もお休みされるそうです。災厄の除去を願って始まったお祭りですので八寸の長刀鉾は今年も出してみました。
何より穏やかな毎日が早く訪れますようにと願いながら盛り付け
小さな祇園祭始めました。
毎年当たり前のように聞いていた、コンコンチキチンのお囃子に
いつも夏らしさを感じなから、どこか誇らしげに眺める、天高く並び立つ鉾たち
目を閉じるとはっきりと京の夏景色が浮かんできます。
華やぐ心と願う思いを込めて
小さな長刀鉾巡行させてます。
stayhomeお家で弁当始めました!!

銘酒館タキモトさんとコラボ企画で
stayhome応援弁当始めました!
300mlの小瓶日本酒とお弁当で2700円です!
京都市内出来るだけ配達もさせて頂きます!
ご飯ありなし、日本酒は辛口、フルーティーお選び頂けます!!
笑顔のstayhomeのお供に、笑顔の家呑みのお供に
お声掛けください!
“お家で簡単京料理!小豆フォンデュ編” を YouTube で見る
今日は和スイーツ、小豆フォンデュのご紹介です!
お家でカフェ遊びしてみてください!!お家で美味しい楽しい笑顔の時間のお手伝いができたらとっても嬉しいです!!
簡単で美味しいのであそんでみてくださいね!
編集も少しして見やすくできました(^-^)
“お家で簡単京料理!!あんかけ編” を YouTube で見る
今日はあんかけ料理をご紹介!!
なんといってもあんかけものは餡の美味しさが大切です!
いまだからこそスーパーで手に入る食材で簡単に美味しい餡のレシピをご紹介します!こんなときだからこそ
毎日のお料理作りが大変だからこそ
お料理を楽しんでもらえたらなと
これからも沢山ご紹介していきますね!